呉羽中学校50年史 「光みつる藤が丘」より(抜粋)

このページでは、呉羽中学校50年史から我々が卒業した昭和51年度のページを転載いたします。

皆さんの記憶が蘇りますね。・・・・・・ゆっくり当時を想い出しながら読んで下さい。


今年度生徒会の歩み

 本年は、低成長時代の日本を象徴し、大卒者の就職難の年であった。また政界ではロッキード疑惑が新聞紙上を騒がしていた。
 他に教育欄では、青少年をとりまく問題、家出や非行、受験体制などがとりあげられている。

 幸いにも本校の雰囲気は、「恥ずべき行動を起こさない。つまり非行の方へ歩まない。僕達が自慢でき、誇りを持てることである」と「丘」に生徒会役員が記しているくらい、のびやかで明るいものであった。これも11代校長八島清右衛門以下45名の教職員が、温かく21学級834名の生徒たちを育んだ賜物である。校舎や部活に関する諸設備は充実され、教員とPTAの協力で、めざましい活躍が期待された。

 生徒会(会長
中坪正樹)では、5月に第1回生徒会アンケートを行った。調査結果をみて、昨年度に初めて開催されたクラス対抗リレーカーニバル、完走をめざすマラソン大会、文化部発表のミニ文化祭を継続させた。

 一方で、生徒会を支える各委員会からは本校生徒の現状に対して、素直な反省点もあげられている。大規模校ゆえの集団生活の乱れが、遅刻や校舎内清掃の不徹底にあらわれている。呉羽山清掃や図書館運営など伝統的な活動は受けつがれているが、基本的生活態度や学習態度の育成は、つねに心がける課題であろう。


県総合選手権大会で準優秀校に

 呉中生であることの誇りのひとつは盛んな部活動にありと、記念誌「丘」に当時の生徒会副会長が記している。
 本年はとりわけ、春季・秋季総合体育大会で連続総合1位で、秋季大会は高得点をおさめている。また富山県選手権大会では準優良校に選ばれ、北陸3県大会にも出場しての受賞と大変な成績を残してきた。

 たとえば、ハンドボール部は、1年次から退部するものがほとどいなくて、きびしい毎日の練習に一緒にがんばってきた。3年では、公式試合の県選手権・県体での次勝を除いてすべて優勝している。顧問
河西直孝教諭のもと、県選手権大会の征覇をめざしていたが、当時氷見のハンドボールの勢力は強く、氷見南部・氷見西部中学に惜敗している。

 また、陸上部は女子選手の活躍がめざましく、新人戦から県中学校陸上競技選手権大会まで優勝を重ねている。男子も県選手権で、上位入賞を果たし、北陸3県大会に出場したり、自己記録の更新が多かった。

 本年の卒業アルバムには、剣道・柔道・相撲・卓球・テニス・バレー・ソフトボールなど多くのトロフィー・カップ・賞状を持っている部員の姿がある。

 最後にもう一度、上記副会長の文を紹介しよう。「
絶対に忘れてならないことは、先生やPTAの方々の大きな協力があったために達成できた栄光である。」


県スポーツ準優秀校表彰受ける

 1年度の準決勝敗退後、チームを一新した野球部は、
城石克実、そうけ島正暉両教諭指導のもと迫力あるチームに成長していった。投手近島浩信はカーブを主体に投げわける技巧派で、頭脳的リードの中三川敏之捕手や内野手神代毅を中心によくまとまっていた。

 練習は厳しく、お正月のわずかな日数を除いて全員が耐えぬいた。特に正選手になれなかった3年生部員が練習、試合ともに選手を支え、チームワークの良さをつくっていた。この雰囲気は、下級生にうけつがれ試合ともなれば、1・2年生の積極的な応援が、選手を励ますようになっていた。

 6月30日にいよいよ県営富山球場で県選手権の決勝に臨むこととなった。1、2回の好機をつかんでの2点を守りぬき、対戦相手の氷見灘浦中学を1安打に完封した。灘浦は11連勝中のチームで投手浜口は呉中を3安打に抑えたが打撃に恵まれず、2-Oで呉中の優勝となった。呉中ナインが、ダイヤモンドを一周して熱戦の幕を閉じた。

 10月には、北陸3県大会野球リーグ戦へと出場した。当時は全国大会がまだ開催されていなかったのが残念である。石川・福井・富山の3県が、石川県営球場で激突した。その結果福井、富山が、各々、1勝1敗となり、優勝旗を半年ごとに所持するということになったのも、話題を呼んだ。


雨の馬場島キャンプ

 前年度は新穂高で楽しんだキャンプは、本年は馬場島で行うこととなっていた。7月の1学期末試験終了後、出発当日の天気予報は雨であった。先発隊の3年生は、テントを張った後、夜も更けて10時すぎに、先生方の「移動のため、起きなさい」の声で目をさました。集中豪雨のため、キャンプ設営地が危険となり、馬場島荘に全員移動して夜明けを待った。

 翌朝そこで用意してもらった朝食をとってすぐに、学校へ帰ることとなった。

 第2隊の1年生は出発を延期し、2年生は第3隊で予定の日程で馬場島へ出発した。
 豪雨を心配しながらのキャンプであったが、このことがかえって参加した生徒達の想い出となって、語りつがれていった。


ユネスコ弁諭大会で1位入賞

 7月に行われた校内弁論大会において、佐藤恵美子(3年)が「国境をこえて」と題し、堀田京子(2年)が「私達の義務」と題し、また若林三千代(1年)が「身体障害児の行く末」と題し、各学年の代表となった。彼女達は片岡立美教諭指導のもと夏休みに県民会館において開催されたユネスコ弁論大会に参加した。

 2年の堀田が1位に、また3年の佐藤が入賞となった。堀田は当時新聞紙上をにぎわしていた家出少年少女多発の現状を憂え、家庭の幸福や、友人との支えの大切さを主張したものであった。

 また佐藤は、ドイッの少女との文通を通じてドイツ人の家庭教育にみられる個人主義の尊重の態度を学び、日本の家庭教育のあり方を反省し、異国の人々とのふれあいの大切さを主張したものである。いずれも、基本的なものの見方や、実体験からの主張が、賞につながったものと、評価された。


富山県教育界 -業者テスト間題噴出-

 高等学校普通科への進学熱がたかまっている富山県教育界では、昭和40年代後半から学習塾の多様化や効用について論議が高まってきていた。本年の北日本新聞には、年9回におよぶ業者テストの実施や報酬についてや、副教材の購入で生徒の負担増加など、教育の正常化に関する特集記事が目立っている。

 なかでも業者テストについて、当時の屋敷平州教育長が、「テストそのものを学校全体の教育の中で、バランスを保って位置づけ、回数の見直しや、報酬の生徒還元」を新聞紙上で提唱している。

 その後、業者テストの回数は減少され、当時の在学生は負担が軽くなったことを記憶している。なお、平成5年(1993)からは、校長会テストと称する教育現場からのテスト作成が行われた。


米飯給食の導入

 本年度富山市は中学校生徒の完全給食を目指していたが、6月14日、3つめの給食センターが完成し、体制が整った。16日からは市内15中学校が完全給食となった。また、この春文部省が学校給食に米飯を正式採用して以来、県内でもなんらかの形で米飯給食を採用している。中学校91校のうち、自校炊飯14校、委託炊飯1校、アルファ化米使用27校、弁当持参18校の60校、全体の65.9%が実施している。

 本校では多数の生徒のために調理員の労苦は大変なものがあった。昭和44年に給食体制が整ってから、ほぼパンを主食としていた。この時、最初は自校炊飯でアルファ化米を使用したり、業者からの弁当導入をおおよそ週に1〜2回程度、実施していた。元来、農村地帯を背景に立地している本校であったので、生徒からは、概して好評であった。


牛ケ首用水のたび重なる浸水

 本年7月19日の集中豪雨は未明から、ところによって1OOmmを超え、各地で被害が相次いだ。

 富山市呉羽本町、東洋紡呉羽工場横から、呉羽消防署前にかけて流れる牛ケ首用水の支流小竹江用水(幅2.5m、深さ約2m)があふれ、同所靴販売店やすし店など12戸が床下浸水となった。

 現場は旧8号線のそばで、高台から同用水がゆるやかなカーブになって流れており、大雨のたびに水がつきやすくなっていた。毎年の浸水に慣れてはいるが、一面の泥水の排水に懸命の作業が続いていた。

 本年の豪雨は、馬場島キャンプにも影響を与えたくらいであったが、この局地的浸水は寒江、下村方面の白転車通学生の足をしばし止めることもあった。