Y字型校舎の建設譜   −校舎見学会参加者 必読−

このページでは、同じく呉羽中学校50年史からの抜粋で「特集記事」を転載します。

文字が多くて大変ですが、どうか最後まで読んで下さい。当時の方々のご苦労が忍ばれます。


 昭和23年(1948)11月に終戦直後の極度の統制下で古材を活用して竣工した木造校舎は、強風が吹くとガタガタと音を立てて揺れ授業に障害が生じたり、わずか4〜5年で天井や床、腰板がゆがむなど、成長の著しい生徒たちの前にはひとたまりもなく、補強や修繕に追われる日々が続いた。

 校舎の改築については、昭和29年以来PTAが中心になって再三にわたって陳情を行ったり、「校舎改築促進期成同盟会」を設立して積極的な働きかけが行われてきた。

 また、山森利一旧呉羽町長の学校教育にかけた熱意や日本建築学界の常識を覆した日本一ユニークな校舎の設計・建設。並びに当時1億円を超えた財源の確保と呉羽町議会議員や職員の不断惜しみない尽力。さらには教育予算が大きな比重を占めたことに対する町民の深い理解と協力など、建設・竣工に至る経過は壮絶な一大事業であった。

 超近代化を誇ったY字型校舎も老朽化が進み、改築の必要性がでてきているが、今ここに建設の経過をたどってみる。


教育の刷新向上をめざした建設構想

 昭和33年(1958)2月、呉羽町長に初当選した山森利一前PTA会長は、卓越した識見と優れた行政手腕のもとに、教育の刷新向上をめざして呉羽中学校の建設事業を町政の第一歩とした。

 山森町長は、衆議院議員(1936年埼玉3区から出馬・議員歴10カ月)や富山県教育委員(1952〜1954)、同委員長(1954〜1956)、婦負郡教育会会長(1956〜1960)などを歴任し、「百年の計は教育にあり、将来の日本を築いてゆく少年達のために立派な学校を建てたい」との熱意で呉羽町議会(議長甲野安友)、にはかり、全議員の支持を受けるに至った。

 呉羽中学校の校舎改築については、29年以来、再三にわたって町当局(町長鹿野義一)に陳情してきていたが、根本的な改善策も講じられることなく老朽化が一段と進み、加えて35年度から戦後のベビーブームによる生徒急増期を迎え、一刻の猶予もならない状態が切迫していた。32年7月にはPTAを中心とした「呉羽中学校校舎改築促進期成同盟会」(会長田中義勝PTA会長)が結成されて積極的な建設促進運動が展開されてきていた。

 また、長岡・寒江・老田・古沢の各小学校も体育館や給食室などの増改築工事が緊急性に迫られるなど、地域全般的に学校教育に対する関心が高まってきていたこともあった。

 一方、呉羽町教育委員会と町議会でも呉羽中学校の増改築が検討されてきていたが、何分、グラウンド内での建設は沼地を地盛りしていたために軟弱で適さず、他に用地を確保するにも予算的な目途が立たず暗礁に乗り上げた状態になっていた。

 このような経緯から、町長に就任して問もなく出身校の早稲田大学を訪ね、建築学科の吉阪隆正助教授(昭和34年に教授・39年に主任教授・44年に理工学部長に就任)に本校の建築上の問題点を相談するとともに、「呉羽の土地柄にふさわしい建築物であること」と「合理的かつ経済的効率が良いこと」などが話し合iわれた。

 吉阪助教授は、東京から何度も来町されて地質調査を行ったり、地域の風土に密着した中等教育・文化の殿堂を模索するために、呉羽山や城山から呉羽中学校を眺望して構想を練り、設計の運びとなった。


フランスの巨匠建築家に学んだ最新設計

 34年3月早々、呉羽町役場(現富山市呉羽地区センター)で呉羽中学校新校舎の基本設計図が公表された。

 当時の小・中・高校は、ほとんどが旧校舎や射水東部中学校のように長方形型の木造板張り瓦葺き校舎であり、新校舎は世界に類例のない新式建築物で未来に向かった“超近代的校舎"として新聞紙上などで大きく取り上げられた。

 設計者の吉阪隆正助教授は、フランスの巨匠建築家であるル・コルビュジェに学び、巨匠が白ら築いた近代建築の5原則(ピロティ・独立骨組み・白由な平面・白由な立面・屋上庭園)を有効に取り入れ、雪国のテストケースとして帰国後まもなく手がけられた最新設計であった。

 『世界建築辞典』(鹿島出版会発行)や『万有百科辞典』(株)小学館発行)などによると、ル・コルビュジェ(1887-1966)はスイスで生まれ、10歳の時からフランスのパリに定住し、鉄筋コンクリート構法の先駆者オーギュスト・ペレーのもとに働き、建築工法を体得していった。また、幼少の頃より絵画と彫刻にも優れ、1920年代頃から旺盛な執筆活動とともに都市計画や建築の実作品に合理主義建築思想を打ち出し、1928年にシアムCIAM(近代建築国際会議)を結成して事実上の推進者になるなど、「20世紀には世界的に最も影響力のある華々しい建築家で形態の創案の豊かさという点で唯一ピカソと比肩しうる]と記されている。

 一方、吉阪教授(1917-1980)は東京・小石川区で生まれ、昭和16年に早稲田大学建築学科を卒業して同科の教務補助を務め、25年に助教授に昇格するとともに、フランス政府の招きで同国へ給費留学をした。その後、27年から2年間にわたりパリのル・コルビュジェアトリエで勤務し、マルセイユの集合住宅やインドのチャンディガ一ル首都計画など数多くの建築設計に加わり、29年に早大で吉阪研究室を創設した。また、同教授は登山家として積雪や雪氷に関する研究を行うとともに、「建築文化」や「新建築」などの論文を発表したり、『住居学汎論』や『環境と造形』など数多くの著書を出版するなど、日本屈指の建築家として活躍した。


着工に向けた呉羽町政の英断

 呉羽町と同町議会では、基本設計図が出来上がったことにより、校舎建設の実現に向けて様々な検討と取り組みが行われた。

 何分、建設費の概算総額はユ億95万円にも及んでおり、決して財政豊かでない町政にとって財源の確保は至難の技であった。

 このことから、呉羽町議会(議長宮崎太一)では34年3月、建設事業の諸調査を行うことを目的として議員全員で組織する「呉羽中学校建設特別委員会」を設立し、必要に応じて町長・助役・総務課長・教育長・呉羽中学校長らの出席を求めて具体的事項を協議・検討することとした。また、6月議会では呉羽町政を円滑に推進するため、6か年にわたる「財政再建計画の申出書」を議決し、自治庁(現白治省)に提出して建設に向けた基盤固めが行われた。

 一方、呉羽町教員委員会(教育長森田宗義)では、昭和35年〜38年度における急増期の生徒数と不足する教室数、生徒1人あたりの基準面積などを正確に把握するとともに、国庫補助の対象面積とそれに対する補助金や地方債の発行、町費の支出負担額などを試算し、特別教室棟や管理棟を木造2階建てとした第二建設案や射水東部中学校を統合した際の最大規模を仮定した第四建設案を立てるなど、資料作りが進められた。また、5月には富山県教育委員会(教育長川瀬善一)に危険校舎改築工事承認申請書を提出して富山県知事(吉田実)の承認を受けるとともに、6月には山森町長が山下清信副議長や高森校長ら関係者を伴って補助金交付申請などのために文部省へ陳情に上京した。

 その結果、老朽校舎改築補助金172万2000円と不正常授業解消改築補助金429万6800円が国庫補助金として交付されることに決定し、11月に呉羽町議会で6か年計画に及ぶ工事施工と新年度当初の建設予算1556万円、翌年1月からの本格着工などを議決するに至った。また、完成までの設計監理は、吉阪研究室に一任することとし、施工業者は工期ごとの入札制がとられ、第一期工事は金沢市の安原建設株式会社が1,800万円で落札した。


長期建設工事の軌跡

 壮大なスケールの呉中増改築工事は、昭和35年1月15日、吉田県知事らを招待して厳かに地鎮祭が執り行われ、翌日から突貫工事で建設が進められていった。

 各工期別の建設概要は表のとおりとなっているが、第一期工事はY字型のV部分の6教室と各階ホール部分のみで、第二期以降の予算確保や敷地が完全に定まっていない見切り発車的な着工でもあった。

 呉羽町では、すでに組織・機構の簡素合理化や経費の節減、職員給与の据え置き、単独事業の抑制などの財政再建策がとられ、3月には800万円の追加起債を県知事に申請して第二期分の建設費の財源確保に努めるなど、町ぐるみの建設優先策が図られていた。また、国会(内閣総理大臣池田勇人)では12月に公立中学校の校舎建設費を生徒数に応じて比率配分する臨時措置法案が可決され、第二期以降の建設負担額が軽減されることになった。

 第二期工事は第一期工事の残り3教室分とY字型1棟分の9教室3ホール分を行うことになり、金沢市の真柄組が35年!2月に落札・着工し、翌年8月に竣工の運びとなった。これによってY字型2棟が完工し、ベランダで連結された。

 さらに、第三期工事が順調に進行していく中で、第四・第五期の特別教室棟と管理棟の設計変更問題が生じてきた。これは当初の計画案で管理棟は国道8号線(現主要地方道富山・高岡線)に面する校舎の北側に建設することとされていたが、補助金の算出基準が低い上に敷地の確保が充分に出来なかったり、物価の上昇で建設費が高騰して町の財政を圧迫し、規模を縮小せざる得なくなったものであった。学校側では教育機能の低下を防ぐために町当局に折衝するとともに、高森校長も再三吉阪研究室を訪れて、時代に即した図書館・理科・音楽・美術・技術工作室などの機能充実を要望し、計画の変更などを申し入れた。

 また、この変更によって特別教室棟と管理棟は「く」の字型4階建てで双方が向き合って舟形になり、さらに、Y字型校舎に連繋されて瓢箪形の中庭を造り、39年8月に第一期から五期に及ぶ建設工事が完了するに至った。

                                             Y字型校舎の建設概要

区分 形式 工事期間 建築面積

(延べ面積)

建物構造 工事施工業者 建設費

(内部設備除く)

建物の主なる内容
第一期 Y字型

普通教室棟

S35.1〜S35.8 325.16 u

(1017.64)

鉄筋コンクリート

4階建て

安原建設(株) 2,400万円 1階 ピロティ、ロッカー室

2〜4階 普通教室(6教室)

   ホール、トイレ、ベランダ

第二期 Y字型

普通教室棟

S35.12〜S36.9 397.44

(1112.84)

同 上 真柄組 2,608万円 1階 ピロティ、ロッカー室

2〜4階 普通教室(12教室)

   ホール、トイレ、ベランダ

第三期 Y字型

普通教室棟

S36.12〜S37.8 356.30

(1128.40)

同 上 同 上 3,390万円 1階 ピロティ、ロッカー室

2〜4階 普通教室(9教室)

   ホール、トイレ、ベランダ

第四期 く字型

特別教室棟

S38.4〜S38.12 432.54

(1314.21)

同 上 同 上 3,998万円 1階 生物室、化学準備室、トイレ

2階 化学室、物理室、化学実験室

3階 第1・第2美術室、同準備室

4階 第1・第2音楽室、同準備室

第五期 く字型

特別教室棟

S38.12〜S39.8 318.28

(1521.78)

同 上 同 上 4,300万円 1階 保健室、購買室、宿直室など

2階 職員室、事務室、校長室など

3階 礼法室、会議室、相談室

4階 図書館、家庭科室、資料室


ユニークな設計・建築の特色

 10年後の変遷を予想して設計・建築されたY字型校舎群は様々な特色を有し、建設途中で設計変更されたことによって一段とユニークな全体像になった。

 昭和62年(1987)に国際居住年を記念して富山の建築百選実行委員会(委員長竺覚暁金沢工業大学教授)から発行された『百の共感・富山の建築百選』で、呉羽中学校Y字型校舎は“心を育む造形教科書学校建築''として紹介され、「呉羽中学校は全国的にも数少ない学校建築の秀作の一つである」と高い評価を受けた。

○普通教室棟
 1号棟〜3号棟までY字型で建設された。この棟は、
  @建築物が安定し、強靭である。
  A廊下がないため左右両面の窓から白然採光がとれる。
  B教室が各々独立しているので騒音が少ない。
  C3つの教室によって囲まれたホールは、生徒同志のコミュニケーションを緊密にすることができる。
などの特色を持つ。

 また、1階のピロティは、積雪・降雨・保健衛生面を考慮して生徒のロッカー室が設けられている以外は白由空間になっており、雨天時の集会や軽い運動ができるほか、自転車置き場としても利用できる。

 各階のベランダは廊下的な役目を果たし各棟に続いており、火災時の緊急避難に役立つほか、全校生徒がベランダに出て日光浴や中庭集会に臨むことができる。

○特別教室棟
 この棟は、敷地の関係でY字型校舎に調和した状態で建設されたが、吉阪教授らの「感じ良く、気持ちよく伸ばそう」との発想から「く」の字型に設計変更されたものであった。

 特別教室は、建設概要表のとおり生物・化学・物理などの理科関係教室と美術・音楽教室・同準備室が設けられ、各々授業に対する集中力に配意して教室が台形になっているほか、用途に応じて教材の収納棚や水洗い場、防音・ステレオ・天体観測装置などが設けられている。

 また、2階の化学実験室内には1階の理科準備室へ通じるらせん階段が設けられており、日頃掃除をいやがる男子生徒の中には「1階の準備室の掃除だけはと志願するイケズな者がいるとかいないとか」と話題になった。

○管理棟
 この棟は、職員室・校長室・事務室・宿直室などの学校管理関係はもとより、会議室や保健室・図書室・礼法室・放送室・相談室・視聴覚室(後に家庭科室に変更)なども設け、多様な教育機能を効率的に発揮できるように建設された。

 また、この棟の完成によってY字型3棟と特別教室棟がベランダと階段を使って上下・左右に行き来する事ができるようになり、教職員や来訪者もベランダに足を一歩踏み出すと大半の教室と活発な生徒たちを一目瞭然に見渡す事が出来るようになった。

 平成7年(1995)6月に吉阪建築を研究中の齊藤祐子氏(一級建築士・早稲田大学講師が、呉羽中学校を訪問され、その時の印象を次のように手記に残されている。

 「呉羽中学校で一日過ごし、何よりも人の顔が見えるのが印象的であった。休み時間になると生徒達はベランダに出て話をしたり、移動したりする。ここから中庭を見ているのが好きと話す女生徒。みんなが挨拶をしてくれる。人の姿が見える空間。生徒一人一人、先生も来訪者も姿が見える場所。人と人の組立て、それが呉羽中学校である」(後略)


<管理者からのコメント>

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

普通教室棟は、我々がちょうど生まれた頃に建設されたものなんですね。

また、理科準備室への「らせん階段」を思いだした人、きっとたくさんいると思います。私も掃除の時間にはよくここで「ほうきホッケー」で楽しみました。

島倉先生に見つかって・・・・・・。なつかしいなあ・・・。